佐々木畜産の代表、佐々木章哲です。この佐々木畜産通信では、「もっと牛を知りたいと思う。」という姿勢から生まれる私たちの具体的な活動や知見、畜産にまつわるあれこれを発信していきます。

畜産会社とひとことに言っても、様々な事業を手がける佐々木畜産です。「畜産を変革し、食の未来につないでいく。」という姿をめざすに至った、私の原点をお伝えすることから、佐々木畜産通信をスタートさせたいと思います。個人的なお話に少々お付き合いください。

まず私が佐々木畜産に入社するまでの話です。大学進学にあわせて上京しましたが、当時はまったく畜産の「ち」の字も意識していませんでした。インテリアデザインが好きで、大学卒業後はインテリアショップで働くことが夢。なかでもミッドセンチュリー家具というジャンルにおいて、草分け的存在だった目黒のショップが憧れでした。「30歳頃にはあの店で働くぞ!」と目標を抱き始めた大学3年の夏。そのお店の前を通りかかると社員募集の案内が貼っているではありませんか!ダメ元で履歴書を渡しにいったところ、偶然にもオーナーが十勝出身であることが判明。幸運なことに新店舗準備の2週間限定アルバイトとして働かせてもらえることに。結局そのまま約1年間勤務することになったのです。この20代における、ほんの数年の経験が今に続く自分の原点となりました。

当時、世の中はインテリアブーム。目黒通りは家具屋通りと呼ばれ、お店もどんどんオープンし、週末は通りに人があふれて売上も急増。自分もイケイケだったと思います(苦笑)。ただ、ブームなだけにメディアでの取り上げられ方に違和感を感じていたのも事実。便乗商品の類が世に溢れはじめ、勤務していた店や関係者が啓発し続けてきた「良質なデザイン」が軽視されている空気も感じていました。それもあって、夜な夜な近所の「餃子の王将」に足を運び、先輩たちと「日本のインテリア業界はオレたちが守る!」みたいな議論を繰り返していたのは良い思い出。若い…(笑)。そんな日々を通して、私のなかにやりたいことが芽生えてきたのです。それは、先輩たちには日本で頑張ってもらい、学生である自分は卒業後、本場ニューヨークを見てくる!というもの。今思えば、謎の使命感を胸に渡米を果たすことになります。

 

東京からニューヨークへ。
ニューヨークから帯広へ

ニューヨークでは、家具屋のアルバイト時代に知り合った方々からお仕事を頂きながら、刺激的な毎日を送りました(冒頭の写真は在米中、何度か訪れたイームズハウス。ロサンゼルス近郊にある1949年の住宅建築ですが、自分にとって最高のパワースポットです)。ただ、向こうでは日本人という「外国人」である上、アルバイト経験しかない未熟者。そもそもニューヨークで普通に暮らすことも、今振り返るとなかなかタフでした。正直、お恥ずかしい話、「インテリア業界を守る!」という当初の目標は見失っていたのかもしれません。渡米からちょうど2年半経ったタイミングで帯広に帰省したのですが、父(現会長)から「そろそろ帰ってこい」という一言をかけられます。それがきっかけとなり、再度アメリカに戻ってから3ヶ月間くらいは、家業を継ぐべきかどうか悩みました。

実際のところ、当時の自分ではインテリア業界に貢献できることはないんじゃないか…と漠然と感じていました。そのタイミングでかけられた「帯広に帰ってこい」という言葉。25歳にして初めて家業について考えることになったのです。日本のインテリア業界に自分がいなくても損失はないが、家業のほうは自分が戻って来ないと色々問題が起きるようだ、とわかってきました。ついに私は帯広へ帰ることを決心します。

2005年の年末に帰国。年明けから市場や工場での見習い、食肉学校での勉強を経て、2007年の4月に佐々木畜産で本格的に働き始めました。会社に入ってからは、自分の強みや“らしさ”みたいなものを表現できればいいなと考えていたのですが、すぐに壁にぶち当たります。歴史の長い畜産業界。そこで新しいものを生み出したり、物事を変えたりすることが、非常に難しいと気づいたのです。あと、会食で夜遅くまで飲んで朝早くから仕事をすることに慣れるのは大変でした。とにかく、東京やニューヨークでの生活とのギャップを感じながら働いていました。

ただ、同時にいつも感じていたのは、佐々木畜産の歴史や果たしてきた役割が、地域の畜産業界にとって非常に大きいということ。家具の道を諦めて戻ってきたような自分にも、「先代にはお世話になった」と声をかけられることが多々ありました。十勝の畜産業界で佐々木畜産が果たさなければならない役割はまだまだたくさんあると気づいたのです。自分が会社を継ぐ意味と、佐々木畜産の存在意義とがようやくリンクしてきたのでした。

 

自分の使命は何か?

転機は、入社5年ほど過ぎた2012年のことです。東京とニューヨーク時代に一番お世話になった方から突然「今度北海道に行くから帯広に寄るよ」という連絡が入りました。「インテリアからは足を洗った」とか口にしていた私でしたが、その方と帯広で再会することになったのです。

久しぶりにお会いすると、もはやその方はインテリアではくくれない、暮らしにかかわることすべてを手掛けるようになっていました。世界中の都市も日本の地方も走り回り、サンフランシスコやメキシコのクラフト(工芸品)と同じように、帯広のジンギスカン文化にも興味を持っている。そのスタンスは、私にとって目から鱗。強い衝撃でしたね。

この再会をきっかけにして、道内外の様々な分野の方々との交流が増えていきます。北海道で畜産の仕事に携われるのは恵まれているということを、周りの声から再認識したのです。その上で、もっとテーブルに近いところにも関わっていきたいと思うようになりました。例えば、この写真のお肉のようなことです。2015年、東川町の飲食店「ON THE TABLE」主催のファームツアーがあり、食材のアテンドをしたのですが、私も東川町まで足を運び、ディナーをいただくことに。その時、当社の牛肉を提供し、道内外から来ていただいた方に味わっていただきました。

こうして、いくつかの再会や新たな出会いを通じて、強くした想いがあります。北海道で牧場や工場という畜産に関連した事業をベースに持っている自分だからこそ、畜産に変化を起こし、新たな価値を生み出したい、地域や生産者の発展につなげていきたいという想いです。2012年からの数年間は、会社に入ったころには見えなかった、自分の使命みたいなものが見え始めた時間だったように思います。

インテリアブームに沸く目黒の中心地で感じた、安くて模倣した家具への問題意識。今は畜産に近いものを感じ、考えています。実直に生産された食料が、安さを売りにした量産品に淘汰されてはいけない、と。

ビジネスよりもカルチャー。牛を知り、食文化から畜産の発展に貢献していくのが私の目標、私がここにいる意味だと思っています。